2009年06月17日

大量絶滅の主原因は、巨大隕石の落下による

大量絶滅の主原因は、巨大隕石の落下による環境急変とする説が広く知られているが、その他に大陸の移動による気候変動、植物相の変化による動物の餌の不足、などいくつかの説があり、まだ結論は出ていない。

大量絶滅の原因が巨大隕石の落下であった場合に想定されるシナリオは次のようなものである。

隕石本体は衝撃による発熱で気化蒸発し、塵となって大気中に広がった。
落下海域では巨大津波が発生し、津波は全世界の海岸を襲った。
落下地点の岩盤は高熱により融解し周囲に飛び散った。落下の衝撃により周辺の岩盤が破壊され巨大なクレーターが生成した。クレーターの形成時に大量の岩屑が空中に舞い上がった。
大気は塵によって不透明となり日光が地表に届かなくなって、地表が寒冷化した。
大気中に舞い上がった岩石中に含まれていた硫黄分が酸性雨を降らせた。
環境の激変に適応できなかった多数の生物が死滅した。

酸性雨の原因は化石燃料の燃焼や火山活動などにより発生する硫黄酸化物(SOx)や窒素酸化物(NOx)、塩化水素(HCl)などである。これらが大気中の水や酸素と反応することによって硫酸や硝酸、塩酸などの強酸が生じ、雨を通常よりも強い酸性にする。 また、アンモニアは大気中の水と反応し塩基性となるため、酸性の雨といった定義からは外れるが、降雨により土壌に運ばれた後に硝酸塩へと変化することで広義の意味で酸性雨の一要因とされる。大気中に放出されるアンモニアについては、人間の活動や家畜糞尿に起因するものが問題視されている。
日本映画
バレエ
結晶学
ビリヤード
栄養ドリンク
キンボール
少子化
動物園
アレルギー
関東
為替レート
おつまみ
歌舞伎
運送
自動車工学
鳥インフルエンザ
サーフィン
薬膳
カバディ
高齢出産


なお、日本における原因物質の発生源としては、産業活動に伴うものだけでなく火山活動(三宅島、桜島)等も考えられている。また、東アジアから、偏西風に乗ってかなり広域に拡散・移動してくるものもあり、特に日本海側では観測される。

国立環境研究所の調査では日本で観測されるSOxのうち49%が中国起源のものとされ、続いて日本21%、火山13%、朝鮮12%とされている。

2009年05月31日

二十二史箚記

『二十二史箚記』(にじゅうにしさっき)とは、箚記(読書雑記を箇条書きしたもの)の形式で、中国の正史二十二史の編纂形式や構成・内容について考証し論評した書。清代の趙翼の著。本編36巻と補遺1巻とから成り、乾隆60年(1795年)の自序および嘉慶5年(1800年)の銭大昕等の序文がある。廿二史箚記とも記される。

その自序中で述べているところによれば、経学は難解であるが、史書は渉猟しやすい。なおかつ我が家には蔵書数が少ないため、正史のみを考証した。正史の二十二史を読む中で気づいた点を書きとめておき、互いに矛盾する記載や興味をもった問題などを比較研究し、それを一書としたのが本書である、という。実際には『新唐書』『新五代史』をも含めた二十四史全てを扱っているが、趙翼の著述の当時これら二書は正史には加えられていなかったため、二十二史と称した。
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上記の自序中で述べるような異同の問題のみならず、その筆は、各史書の編纂の経緯や筆法、各時代の政治の得失、太平と動乱など王朝の興亡や動静にも及んでいる。その項目数は、全体では約500件に及んでいる。ただし、その考証の精緻さにおいては、同時期の王鳴盛・銭大昕などの考証学者中の大家には及ばないという評価がなされている。また、その考証の論点を傍証するために正史以外の書物まで引用するということも原則的にはしていない(明代の史実については若干野史を参照している)。ただ、歴代の正史について見る場合には簡便な書物であり、正史を読む際の参考にはなる。日本では頼山陽が序文を付した和刻本が出版されており、頼山陽はその序文の中で、歴代正史を読まなくても、この本を読めばあらましは分かると述べ、日本では正史の概要を知る本として知られた。

巻末には補遺として、趙翼が『御批歴代通鑑輯覧』の編纂に参加した時の、遼代・金代・元代の人名・地名・官職名などの漢訳・訂正の記録を収録している。

なお、日本では1930年に国民文庫刊行会から『続国訳漢文大成』経子史部19・20巻として日本語訳版が刊行(1958年に東洋文化協会が復刻)され、また汲古書院から和刻本の影印が出版されているが、今日では入手困難である。

2009年04月28日

ツァラトゥストラ

『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降、哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。しかしソクラテス以前のギリシャに彼は終生憧れていたことを否定することはできない。

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。

すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は全て力への意志と言い換えられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。

ニーチェの思想はナチスのイデオロギーに利用されたが、ニーチェの思想がナチズムや反ユダヤ主義と相容れないものであるという主張は、ジョルジュ・バタイユをはじめピエール・クロソウスキー、アンドレ・マッソン、ロジェ・カイヨワらによるフランス側での同人誌『無頭人(アセファル)』(1936年 - 1939年)などが有名である。 そもそもニーチェは、反ユダヤ主義に対しては強い嫌悪感を示しており、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者として知られていたベルンハルト・フェルスターと結婚したのち、1887年には次のような手紙を書いて叱責している。

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“ お前はなんという途方もない愚行を犯したのか――おまえ自身に対しても、私に対してもだ! お前とあの反ユダヤ主義者グループのリーダーとの交際は、私を怒りと憂鬱に沈み込ませて止まない、私の生き方とは一切相容れない異質なものだ。……反ユダヤ主義に関して完全に潔白かつ明晰であるということ、つまりそれに反対であるということは私の名誉に関わる問題であるし、著書の中でもそうであるつもりだ。『letters and Anti-Semitic Correspondence Sheets』[11]は最近の私の悩みの種だが、私の名前を利用したいだけのこの党に対する嫌悪感だけは可能な限り決然と示しておきたい。

また、1889年1月6日ヤーコプ・ブルクハルト宛てのおよそ気が確かだと思われる最後の書簡は、「ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」で結んである。主著『善悪の彼岸』では「ドイツ的なもの」とその喧伝者への批判に一章を割き、死後に刊行された草稿ではドイツ人のいう「偉大な伝統」なるものを揶揄して「ユダヤ人こそがヨーロッパで最も長い伝統をもつ、最も高貴な民族である」と、さらには「反ユダヤ主義にも効能はある。民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられることだ」とまで書いている。にもかかわらずナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとした妹エリーザベトが、自分に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、遺稿『力への意志』が(ニーチェが標題に用いた「力」とは違う意味で)政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄をおこなって刊行したことなどが大きく影響している。

しかしながら、ルカーチ・ジェルジや戦後に刊行のトーマス・マンの、ニーチェをモデルにした小説『ドクトル・ファウストゥス』において、ニーチェをナチズムと結びつけて捉えるべきかのように示唆する観点をもつ研究者や作家も存在する。

ニーチェは次のようにも言っている。 「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。 強度の慢性疾患や精神薄弱症にかかっている者の場合である。・・・ 社会は、生の受託者として、生自身に対して生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、 またそれを贖うべきである、したがってそれを防止すべきである。 しかもその上、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、 事情によっては去勢をも用意しておくことが許されている。」(『力への意志』734)

ナチスはユダヤ人虐殺以前に、障害者を強制「断種」して、 その後、精神病院にガス室をつくって障害者を多数「安楽死」させていた。上記のニーチェの思想はナチスの行為を正当化するものでもあった。
ニーチェの哲学がそれ以後の文学・哲学に与えた影響は多大なものがあり、影響を受けた人物をあげるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響を受けた哲学者、思想家としてはハイデガー、ユンガー、バタイユ、フーコー、ドゥルーズ、デリダらがいる。1968年のフランス五月革命の民主化運動も、バックボーンはニーチェ精神だった。

2009年04月12日

ケレス (準惑星)

ケレス (1 Ceres) は準惑星の1つで、小惑星帯に位置する最大の天体。セレスともいう。小惑星として初めて発見された天体でもあり、小惑星番号1番を持つ。

1801年1月1日にシチリア島にあるパレルモ天文台の台長ジュゼッペ・ピアッツィによって発見され、ローマ神話の女神ケレスから命名された(中国では「穀神星」という名前を付けられている)。その後、見かけ上太陽に接近したために行方が分からなくなったが、カール・フリードリヒ・ガウスが最小二乗法を改良して編み出した軌道計算法によって同年の12月31日にフランツ・フォン・ツァハとハインリヒ・オルバースらにより再発見された。

発見当時は新しい「惑星」とみなされていたが、その後近くの軌道に同じような天体が続々と見つかってきたこと(小惑星帯の発見)や、惑星にしては小さすぎる(最小の惑星である水星の約5分の1)ことなどから、1850年頃から「小惑星」として惑星とは区別されるようになった。それでもケレスは直径約950kmと小惑星の中では飛び抜けて大きく、その後何千何万という小惑星が発見されてきたにも関わらず、およそ150年の間、ケレスは「太陽系最大の小惑星」であり続けた。

2000年代に入り、海王星以遠にクワオアー(直径1,250 km ± 50 km)などケレスを上回る大きさの太陽系外縁天体が複数発見されてきたことで、ついにケレスは最大の小惑星ではなくなった。しかし、その質量が自己重力によって球形を保つのに十分であるため、2006年8月のIAU総会で採択された太陽系の天体の定義により、「dwarf planet(準惑星)」として扱われることとなった。

小惑星帯にはケレスほど大きな天体は存在しない。次に大きいパラスでも質量はケレスの5分の1ほどしかない。ケレスの質量は小惑星帯の天体の総質量の4分の1 - 3分の1を占める。

ケレスは、太陽に温められていることから、ごくわずかな大気と霜が存在すると考えられている。また、形状がほぼ球形であり、表面の凹凸が少ない事から、ケレスは岩石の核を持つと考えられている。コーネル大学のピーター・トーマスは、薄い地殻と岩石の核との間に厚さ60 - 120kmの氷のマントルが広がっているというモデルを提示している。

ケレスと同じような軌道を持つ小惑星族があり、かつては「ケレス族」と呼ばれていたが、ケレスのスペクトルはこの族のほとんどの小惑星と違っているため、ケレスの方がこの族の中に紛れ込んだものと考えられるようになった。小惑星族の方は「ゲフィオン族」と改名されている。

ケレスの研究について [編集]
2001年、ハッブル宇宙望遠鏡で紫外線により画像が撮影され、暗色の円状の地形(クレーターと推測された)に「ピアッツィ」の名が付けられた。2004年、マウナケア山のW・M・ケック天文台で補償光学によりケレスの高精度観測が行われた。その結果、2つの衝突クレーターと思しきアルベドが低い地点が発見され、そのうちの一つには明るい平野が認められた。しかし、ハッブルが認めた「ピアッツィ」は、ケックの観測では発見できなかった。

アメリカ航空宇宙局 (NASA) は2007年9月に探査機「ドーン」を打ち上げ、予定では2015年にケレスに接近する。この探査機は2006年6月に打ち上げる予定であったが、技術的な問題や当初予算より高額となったことなどから一旦は計画中止とされ、ジェット推進研究所 (JPL) などによる抗議によって再開、打ち上げに至っている。

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2009年03月28日

ジェンダーフリー運動とそれをめぐる状況

ジェンダーフリー運動では、「ジェンダー」とは文化的・社会的文脈における「男」「女」の性の役割やイメージに限定した意味で用いられている。

それから、ジェンダーフリーは主として「ラディカル・フェミニズム」の一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論、運動が展開されたため、この運動において用いられる「ジェンダー」の概念は、人文系の学問において一般的に用いられる中立的・客観的な意味での「社会的文化的性別」という概念とは異なっている。

「ラディカル・フェミニズム」においては、「ジェンダー」は、男性と女性を平等で相互補完的に位置づけているものではなく、「男が上で女は下」「男が支配し女が従う」といった、一方的な支配関係として機能している、と捉えている。「ジェンダー」は男女の支配従属の関係を維持するための装置であり、また、ジェンダーを根底から規定し、女性を差別的状況におく社会的仕組みの中心をなすのが、性別役割分業であるとしている。

すなわち、ジェンダーフリー運動における「ジェンダー」は、中立的な概念・用語ではなく、性別役割分業を階級構造であると見なし、また、これを解消すべきという意図を持った政治的な概念・用語となっている。

また、この運動においては、「社会に男女の区別や性差の意識があるために役割分業も発生するから、男女を分ける制度を失くしてしまおう」という考え方のもとに、男女の差異そのものを否定・相対化してしまおうという主張を展開する。

この政策には、制度面の改革と評価面の改革という二つの面がある。たとえば、学校教育運動であるジェンダーフリー教育としては、以下のような特徴が挙げられる。

制度面では、男女に分けない共通性として、科目の共通性(男子も家庭科を必修にする等)、衣服・教材の共通性(体操服を両性共通のデザインにする等)、呼称の共通性(両性とも「さん」付けに統一する等)、呼び順の共通性(男女混合名簿等)など、各制度における両性の共通化を推し進める。

また、評価面では、ジェンダーステレオタイプによるバイアス(偏り)を解消し、生活指導面(泣く男子は叱るのに、泣く女子は叱らない等の区別はしない)、進路指導面(女子が理系に進むことに消極的になるような誘導はしない)、固定的な役割分担を定めない(常に男子が学級委員、女子が副学級委員等と固定化しない、運動部のマネージャーを女子のみに限定しない)など、「個々の個性」に基づいた評価・進路指導の方針を進める、などである。

また、学校教育方面以外にも、育児教育や職業選択などでジェンダーフリー運動が展開されている。

これに対して批判側からは、性別は生物学的要素を多分に含むものであるから体格、出身、門地、民族その他の要素と同一に取り扱えない、差別ではない性差による区別は否定されるべきでない、といった批判がなされている。

英語圏では、「男女平等」を目指すものとして、「ジェンダー・イクォリティ」運動が、日本の「ジェンダーフリー」運動に近いものとして存在している。ただし、日本以外では、「あらゆる場面において男女の区別を解体すると、女性を対象にして保護や優遇措置を求めるフェミニズム運動にとって不利である」ことが早くから指摘されており、これを踏まえ、男女の区別を画一的に解体せずに、ジェンダー・イクォリティ」運動を進めるべきであるというフェミニストも見られる。

日本政府の「内閣府男女共同参画局」はジェンダーフリーについて『一部に、画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で「ジェンダー・フリー」という用語を使用している人がいますが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではありません』と説明している(内閣府・男女共同参画関連用語集より引用)。2003年2月27日の国会における福田康夫官房長官(当時)の答弁では、「ジェンダーフリーという言葉はいかなる場合でも使ってはいけないということではない」「誤解を招くような、そういう恐れあるので政府として公式に使っていない」「使用する際に、例えば地方公共団体とか関係機関において用語を適切に定義して、それが誤解なく理解されるようにする、これが大事だ」との見解を示した[4]。2005年12月27日に閣議決定された男女共同参画基本計画(第2次)第 2 部 2 (2) 項で使われている『「社会的性別」(ジェンダー)の視点』の用語の補足説明 2.では、『「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる』と記されている。また『児童生徒の発達段階をふまえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である』と記載されている[5]。2006年1月31日に内閣府男女共同参画局から各都道府県と政令指定都市の男女共同参画担当課(室)にあてて出された事務連絡には、「ジェンダーフリー」の用語をめぐる誤解や混乱を解消するために、上記の内容が基本計画に記述されたと記されており、『地方公共団体においても、このような趣旨を踏まえ、今後はこの用語は使わないことが適切と考えます』と記載されている[6]。内閣府によるこの用語の不使用通知をきっかけにして千葉県の女性センターが閉鎖されるなどの新しい混乱が起きた[7]。

内閣府男女共同参画局の指摘する意味での「ジェンダーフリー」という用語は、アメリカでも、日本政府でも、国連でも、公式に使われていない。なお、「(生物学的な意味での)男女を区別せず処遇する」と言う意味でのgender-freeは、英米軍の公式用語として使用されているし、「(生物学的な)ジェンダー(性)にかかわらない(語彙など)」という意味では使われているので「英語にない完全な和製英語」という言い方も正しくない。

福井県では、男女共同参画関連施設の県生活学習館で開架されていた男女平等やジェンダーなどを論じた書籍を閲覧室からカウンター近くの事務室へ移し、敦賀市の市議等から抗議をうけた事例がある。県は、内容を確認をするためにこれらの書籍を移動したと説明し、確認の結果、全て問題がなかったとして一般公開を再開している[8][9]。

東京都では、男女の違いを否定するという意味でのジェンダーフリーが、都教育委員会の男女平等の見解と異なることから、ジェンダーフリーという言葉を用いないように文書で通達している。また、抗議を受けて、東京都国分寺市が,「ジェンダーフリー」という言葉を使用する恐れがあるとして講演を依頼していたフェミニストである上野千鶴子を招くことを見送った事例がある[10][11]。

現在は「ジェンダーフリー」を前面に押し出して普及させようという形の運動は下火となっているが、一部の保守派などがジェンダーフリーという言葉に反発するなど、バックラッシュと呼ばれる現象が顕著である。また、現在では、ジェンダーフリー教育を批判する言説を「バックラッシュ」と呼び、そのバックラッシュを批判しながら、ジェンダー等の用語について解説したり、ジェンダーフリーや男女共同参画の問題点を論じたり、バックラッシュ言説が問題とした各論点について検証する、という立場にたった論考集なども出版されている

チャーター ファック なめこ バルチス 七色の風 サイドスタ アップ ジプシー ビルマ 赤唐辛子 牧場の家 ストック スリング アーケイズ ヒエロ バースト 一本釣り ダウナー 夏の日 青春の谷間 ワラン バターピ 風神雷神 マイイレ バード トロイオ デコルテ バビロン マロン てっけん 番外野郎 ダイハー ナイロビ オマーカー フルライ テリー 赤オクラ アップ 検索マナ メータロィ ブータン カニ歩き ヒーロ ローゼ スキャン 一本勝負 ガーケキ わらづと フラッ マルトル

2009年03月12日

エーランド島南部の農業景観

「エーランド島南部の農業景観」は、スウェーデンにある文化的景観の一種で、ユネスコの世界遺産に登録されている。エーランド島にはStora Alvaretと呼ばれる石灰岩に覆われた不毛の平原が広がっているが、そのやせた地質と高いpHレベルのせいで、多くの希少種を含む植生が見られる。世界遺産登録理由は、その傑出した生物多様性と先史時代からの人類の苦闘の痕跡とが評価されたものである(ただし複合遺産ではなく文化遺産としての登録)。この地形は島の4分の1以上にあたる260km?以上にわたって広がっており、この種の地形としてはヨーロッパ最大級である。

不毛の平原といってもしばしば誤解されるような草一本生えない場所というわけではなく、pygmy forestと同種の、まばらだけれども多様な小樹木は見られるのである
石灰岩の平原は、氷河期の早い段階から氷河によって形成されたものである。石灰岩それ自体の形成は、より南の海で約5億年前に行われたもので、段階的に固まりながら北へと漂流したため、海棲生物の化石を多く含んでいる[2]。例えば、現在の島からはオウムガイの祖先に当たるオルトケラス(Orthoceras)の化石が発見されている。

およそ11000年前に最後の氷河が融解しだして圧力が弱まったのに伴って、ようやくエーランド島の最初の地面がバルト海から顔を出した。それからの数千年以上にわたり、一層氷は解け、当時はまだ氷で陸続きになっていた本土から人類をはじめとする大型哺乳類が移り住んでいった。最終的に、剥き出しの石灰岩と吹き寄せる風が、地表2cmほどの不毛な土壌を形成した。島の多くの場所では地表は石灰岩に覆われている。

先史時代の人類
先史時代の集落として最もよく知られている場所は島の東岸のAlbyにある。ここでの発掘の結果、当時潟だった場所の周りから木造の小屋の跡が見つかっている。また発見された加工品にはクマ、テン、アザラシ、ネズミイルカなどのものが含まれている。つまりは骨角器、ヘラジカの角の銛、火打石などの発見を通じて、彼らの狩猟採集技術が明らかになっているのである。

Eketorpの最もよく知られた遺跡を含めて、より後の時代のリングフォート(ringforts)の痕跡が多くある。青銅器時代と鉄器時代初期には、一帯の石灰岩平原で育つ限られた種の樹木への負担が極度に増加した。研究者には、Eketorpや他の遺跡で西暦500年ころに人々が謎の失踪を遂げているのは、こうした樹木の消失が原因になったことを示唆している[3]。つまり、西暦500年頃に土地の生産能力よりも人口増加が上回ってしまったと考えられるのである。 西暦800年から1000年頃になると、石灰岩平野の周縁部に様々なバイキングの集落が現れるようになる。
メソッド ディスポ ワシン ナギイ 十字星 ケルセ ロービ はつい バナナの涙 鹿鳴つまみ 延暦 スーパー ハリケーン ノンブル タイム メラネシア メラルド スタンバイ ダイク スパン バックナ きゃべつ マスアミ ジャテラ ローフ レクイエム がいがん トリプシ リップ ハーピー ドラス ハゲイ トッカ リグナビ ハット チューリ ランド フラック ツンドラ せろりあ サフ たぬきじる め組最 エスキナ パスモ かたしな レジューム プラン オーバ ソビエト

生態系
この地域の生物相に関する最初の科学的な調査記録は、1741年にこの地を訪れたカール・フォン・リンネのものである[4]。彼はこの地のめずらしい生態系について「この最も乾燥した不毛の地でいくらかの植物はいかにして繁殖しえているのかは特筆に価する」と記述している。この地の植物相には氷河期からの残存種も含まれている。石灰岩の敷き詰められた平原の生態系には、実に多種多様な野草類が生育している。そこには、セダム、ロクベンシモツケ(dropwort)、アルテミシア・オエランディカ(Artemisia oelandica, エーランド島固有種のヨモギ属の植物)、 Shrubby Cinquefoil, Common spotted orchid, kidney vetch などが含まれている[5]。これらの野草のほとんどは5月から6月に開花する。

この石灰岩平原にはMeadow Oat-grass や Sheep's Fescueも生えているし、Hygrocybe persistens や Lepiota albaといった多くの菌類も生育しているのである。一帯は深刻な乾燥地帯として知られてはいるが、季節性の湿地や一時的な池(Vernal pool)はいくらか存在するし、特にAlby村北西のかつて潟だった場所ではそれが顕著である。

現在の村落と道路
Stora Alvaretの東、西、南の境界は、島全体を走っている二車線のハイウェイで区切られている。一定の緯度帯には、Stora Alvaretを直接に東西に横切る整備された道路はあまり存在しない。Stora Vickleby, Gettlinge, Grönhögen, Hulterstad, Alby, Triberga, Vället といった小村落は、石灰岩平原周縁部のハイウェイ沿いに存在している。平原の中にもMockelmossen, Solberga, Flisas といったより零細な小村落は存在している。古い村落の中には、Dröstorpのようにすっかり人のいなくなってしまったものもある。Stora Alvaretの最南端には、かつては王家の御用狩猟地で現在は自然保護区になっているOttenbyがある。

2009年02月24日

仮面ライダークウガ

西暦2000年。長野山中の九郎ヶ岳において謎の遺跡が発掘されようとしていた。しかし、遺跡の中に置かれた棺の蓋を開けた時、突如現れた謎の存在によって調査団は全滅させられてしまう。調査団殺害犯の手がかりを得るため遺跡を調査していた長野県警刑事・一条薫の前に、無断で遺跡に入ろうとする若い男が現れる。問いただす一条に、その男は冒険家・五代雄介と名乗った。

やがて復活した異形の者たちが長野近郊に出現し、人々を無差別に襲い始めた。雄介は、遺跡から出土し警察に保管されていたベルト状の遺物から戦士のイメージを感じ取り、冒険家の勘に従いこれを腰に装着。雄介の体は気合と共に装甲に覆われていく。変身した雄介は県警を襲う怪人に立ち向かい苦闘の末に敵を一時退け、一条に向けて得意のサムズアップをキメるのだった。

だがこの騒動は、やがて起こる"未確認生命体事件"の序章に過ぎなかった…

モチーフはクワガタムシで、東映の「漢字で書ける名前」という要求で「クウガ」と命名されたとされている(漢字表記では「空我」)。以前のシリーズ作品では基本的に世界観の関連があったが、本作は一応別の世界観と据えられた。また、劇中で「仮面ライダー」という語を用いることはなかった。しかし、従来の仮面ライダーシリーズのオマージュとも言えるものが、台詞や設定の随所に盛り込まれており、ファンサービス的に過去のシリーズとの繋がりを匂わす描写も、例えば、城南大学の本郷教授という人物の事が本編で語られるが、特徴が本郷猛=仮面ライダー1号によく似ているなど、いくつかある。
キンキ ツバター 夜の足音 きこう シーメー ミーンズ シャーク ニュピ 新秋柿 チャー インス 線香花火 オーピ スチーマー トレッチ ふくいく リバティプ リトミック ターメ スピーカー ノーシャ パラフィン ルコウソウ パルサー ギニョー ホウセン フォー ウォー でらいと ケット おおわ ハック バンクス レンテン ナンバー ゆうな トロイ パルテ フェースオ ゼラチン シャク ステレオ アーム マウンド ミゼラブル マインド スイング じょうめ メタリック 浦島太郎

以前のシリーズ作品との大きな違いには、「改造人間」「地球の支配を目的とする悪の軍団」「戦闘員」などの設定がなくなったという点が挙げられる。医療技術の進歩により臓器移植手術などが多く行われるようになった情勢を考慮すれば「改造人間」を異形の者として描写することには抵抗があり、東映も「改造人間ということによる影を持った主人公にしたくない」ということで新設定となった。これに関して倉田てつをは「今のライダーは楽でいいねえ。俺のときは『改造人間』という設定だったんだ」とコメントした。

また本作は、円谷プロ制作の『ウルトラマンティガ』(1996年)と同様、従来の特撮ヒーロー番組にはなかった新たな試みが随所に見られる。身近な恐怖を演出するための現実感と、特撮ヒーロー番組にありがちだった多くの矛盾点を解消させるため、整合性を重視し、「グロンギ族は独自の言語と文化を持つ」「クウガと警察が協力する」「技名を叫ばない」などの設定が生まれた。作劇においては(従来ではスポットの当たりにくかった)「回を追うごとの周囲の人々の変化」や「社会におけるヒーローと悪の存在の認知の過程」が描かれるなど、ヒーロードラマの視点だけではなく、一般ドラマの視点も重視している。このため、1話30分以内では1エピソードを満足に描き切れないということで、基本的に前後編の「2話で1エピソード」というスタイルを取っている。このスタイルは以降の作品にも引き継がれた。

商業面では変身ベルト等の人気で好成績を記録したが、ドラマパート重視の作劇により、結果的に戦闘シーンが極めて短いエピソードが生じたり、10月に発売されていたクウガの最強形態が、翌年1月の最終回直前まで本編に登場しない(出番も1、2分程度だった)等の展開が行われた他、逆にスポンサーの玩具会社の担当者も知らなかった新形態が登場し、急遽その商品が開発・発売される等、販促番組としても異例づくめの記録を残すこととなった。その集大成ともいえる最終回では、AパートとBパートの間にCMを挟まず一気にEDまで放送し、変身後の主役ヒーローが一切登場せず、戦闘パートが無い内容だったことが賛否を呼んだ。

本作以降、ジャンクション(放送開始直前に挿入される映像)が頻繁に変更されるようになった。また、提供テロップのナレーションは出演者が交代で担当している(これを踏襲したのは2008年現在『仮面ライダー響鬼』のみ)。ジャン役のセルジュ・ヴァシロフが担当した際は、セルジュが日本語に不慣れなため言い方がたどたどしくなっているが、これが一部で「オダギリがふざけている」と勘違いされ、オダギリが友人から注意されたという逸話もある。

従来のシリーズとは異なり、ナレーションは次回予告と総集編のみに留まった。『仮面ライダーアギト』以降、ナレーションの比重はさらに軽くなる傾向にあり、ナレーションがないわけではないが、ジャンクションや次回予告のみナレーションが入るケースが多い。

制作エピソード
仮面ライダーのテレビシリーズ再開は1996年頃から企画が進められており、当初は当時ウルトラマンシリーズを放映していた毎日放送土曜6時台での放送を目指していた時期もあった。この頃の企画タイトルの一つに『仮面ライダーガイア』があり、『ウルトラマンガイア』と競合したと言われている。なお後に発表された『仮面ライダーEVE-MASKED RIDER GAIA-』の元となった石ノ森の遺稿とは異なる模様。

しかし毎日放送での製作は実現に至らず、その後テレビ朝日で放送中だった前番組『燃えろ!!ロボコン』が縁でキー局をテレビ朝日に変更することとなった。

追い風となったのは『せがた三四郎』である。初代仮面ライダーを演じた藤岡弘、が演じる同キャラクターは仮面ライダーの人気を盛り上げた[1]。

鈴木武幸によるとこうした盛り上がりが本作の誕生につながったとのこと[2]。

制作には従来の作品以上に期間を設け、極力ご都合主義・設定破綻を避けるため主に脚本作りに時間を掛けていた。そのため本来の納品期限が遅れることが重なり、制作会社・テレビ局は非常に切迫した状況での制作・放送が続いた(スケジュール確保の為、総集編が3回放送されている)。制作指揮を執っていた東映プロデューサー高寺成紀は、上層部から体制の見直しを提言されていたが決して譲らず、急遽協力する事となった脚本の井上敏樹の尽力もあり先述の制作体制は一貫された。

一方でリアリティ重視の路線を進んだ結果、設定や描写に生々しい、あるいは過激な表現が盛り込まれているという意見もあり、純粋な子供向けのヒーロー番組を望む親を中心に放送局へクレームが多く寄せられるなど物議を醸した。このことから、後半は『被害者を搬送中に救急隊員が怪人の毒による二次災害にあった』という報告、『未確認生命体が出たので新幹線が運休する』というアナウンスなど間接的な表現でグロンギの恐怖を示す演出がなされた。当時は「日本版Xファイル」を目指して制作された。

主演のオダギリジョーは2005年に雑誌『ピクトアップ』34号のインタビューで、強い抵抗感のある特撮ヒーロー作品への出演を悩んでいた自分に対して、東映側のプロデューサー(高寺)から「子供番組のイメージを無視した新しい番組を作りたい。一緒に壊そう」という言葉で説得された、と語っている(オダギリジョーの項目も参照)。主役に選ばれた後、「仮面ライダーを見たことがなかったので藤岡さんのライダーをビデオで見た」が「これは俺には出来ない」と思いプロデューサーに断りを入れたが、この時も「当時と違う、藤岡さんとは違う形だから」と説得されたと語っている。

劇中の時間の経過は緻密に計算され、シーンが変わるごとに劇中の時間と場所を表示する形式になっている。これにより、劇中の描写と時間の経過は全て整合性が取れたものになっているが、その反面、バスや電車が登場するエピソードでは、劇中の時間を現実の時刻表に合わせるため分単位での時間調整が必要になるなど、苦労も多かったという。

全編がHDTV (HD1080/60i) で撮影されており、当時としては異例の16:9の画面比率で放映された。ただし、当時は撮影のみがハイビジョンで行われ、ポストプロダクション・完パケ・本放送はSDTVで行われた。このシステムの問題を解決するため、以降のシリーズは画面比率を踏襲しつつ独自の撮影方式で作られ、撮影・ポストプロ・完パケ・放映までの本格的なハイビジョン対応は『仮面ライダー響鬼』から始まることとなる。

2009年02月08日

ネットいじめ、サイバーいじめ(英: Cyber-bullying)

ネットいじめ、サイバーいじめ(英: Cyber-bullying)とはインターネット上におけるいじめである。ウェブサイトやオンライン、あるいは電子メール、携帯電話などの場で行われる。また、ネットいじめはインターネットというネットワークを通して全世界にいじめが広がる可能性がある。過激且つ陰湿なものはサイバー・リンチ、ネットリンチとも呼ばれる。
ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ

近年、世界中で発生して問題になっており、インターネットの法規制・フィルタリング規制に発展する国・自治体も出てきている。
ネットいじめは匿名性があるため、通常のいじめのように相手との物理的な力関係が軽視され、その意味が薄れる。また、ネットは監視に欠け、いじめが横行しやすい。直接的な対面がないため、相手の気持ちが通常のいじめ以上にわかりにくいという特性を持つ。悪質なケースでは、標的を誹謗中傷するだけでなく、標的を特定して個人情報をネット上のあちらこちらにばら撒き、更にはネットの世界を飛び出して自宅や職場に直接嫌がらせする場合まである。

学校や職場における通常のいじめならば登校拒否したり、転職したりすることによって直接的な被害から逃れることができる。しかし、ネットいじめの場合はインターネットがこの世に存在し続ける限り、そのような退避手段が存在しない。また、検索エンジンで個人名での検索結果にネットいじめが現れる場合、転校先でもいじめにあったり、転職活動で不利になったりするというケースも存在する(採用側は応募者の氏名で検索して、どのような人物であるか確かめようとする)。日本の場合、改名が簡単ではないため、一度、実名がインターネット上に流出すると、長年苦しむことになりかねない。

日本
いじめの調査法の制度が変更となり実質上の初の調査となった2006年度は4883件ネットいじめが確認されている。しかし、この件数は氷山の一角に過ぎないという指摘が多い[1]。

ネットいじめは中傷等が目に見える形でネット上に記録されてしまう為、いじめ被害者が癒されずに苦しみ続けるという性質を持つ[2]。特にウィキペディアなどのウィキを使用しているサイトや2ちゃんねるのような掲示板サイトなどは記録を半永久に保存し続けるというシステムを採用しており、管理者が削除しない限り中傷等の記録(ログ)がいつまでも残り続けてしまう為、ネットいじめの温床になっている[3]。

またネットいじめは一度広まると、リアルの交友範囲から離れた他学校の生徒などにも広がる傾向があり、問題を深刻化させている[4]。

ネットいじめは通常のいじめよりも第三者に発覚し難い。この為、ネットいじめの被害者が突発的に自殺してしまった場合、何が原因で自殺したのか遺族等には皆目見当もつかなくなるという危険性が高い。

ネットいじめの手口 
学校裏サイトや匿名掲示板で被害者の所属する会社や学校のスレッドで誹謗中傷を行なうというのが従来のパターンであった。だが、ネットの発展と共に最近ではより巧妙な方法を取るケースが散見され、多様化が進んでいる。全国webカウンセリング協議会によれば2005年辺りから相談が増えだしたそうだが「なりすましメール」が2007年時点では一番増えているとの事である[6]。

ネットいじめを行なう側はあらかじめ痕跡を消すために、インターネットカフェやプロキシサーバー経由で書き込みを行なうことも多いため、警察ですら書き込んだ人間の特定が難しいケースが多い。そもそも管理者のいない掲示板では実名をあげた誹謗中傷がされた場合は、削除を求めることが難しい。また、日本国外のホスティングプロバイダを使った場合は日本の法令が適用されないケースもあることから違法性の高い掲示板を日本国外のサーバーに置くことにより管理人の責任を免れようとする者も多、管理人が誰なのかすら判明しないこともある。

なお、この問題の性質上、悪質なサイトにアクセスしないように利用者が各自でフィルタリングを行なうのはネットいじめに関しては効果が薄い。現時点でのインターネットに関する法規制はプロバイダ責任制限法以外に無いことから、被害者の対応は非常に限られたものとなっている。

他にも、自分が知らない場所で悪口が書き込まれているかもしれないという恐怖心から、自分に関するキーワードを検索サイトで検索し続ける(あるいは、自分の名前で検索できない)被害者もおり、そのような恐怖心を狙ったいじめの手口もある[8]。検索エンジンからの個人名での検索で容易に誹謗中傷が発見できるという状況に対する規制も存在しないことから、検索結果に表示される内容についても検索エンジン運営会社に対応を求めることは難しい。なお、ヤフーをはじめとする検索エンジン運営会社の多くは、検索結果に表示される内容についての削除依頼は、依頼内容の正当性や削除権限の有無を確かめることができないとして、削除依頼自体を受け付けていない会社も多い。

行政・マスコミなどの反応
警視庁の電話相談窓口「ヤングテレホンコーナー」には、近年ネットによるいじめ相談が多くなっている。石川県では2007年1月22日にWEB巡視隊が発足した。

子供の間で起きているネットいじめに関しては、ほとんどのケースで携帯電話が使用されている為、保護者が安易に携帯電話を子供に買い与える状況に対して警鐘を鳴らす識者たちもいる[9]。パソコンを家族の前に置くという対策もあるがこれは対症療法に過ぎず、根本的な解決にはならない。インターネットを実名にするという考えもあるが、オークション詐欺の問題と同じようにネットでは簡単に偽名を名乗ることができる為、これもまた抜本的な解決策にはならない。

ほとんどがいじめている人間がインターネットを使っていじめている相手を書き込むという、いじめの延長上の行為であるが、近年では警察も捜査を行うことが多くなり、逮捕・補導される人間も多くなってきている。2007年4月27日には、実名を挙げた中傷を放置し続け、被害者の削除要請も無視し続けていたサイト管理者が名誉棄損幇助の容疑で大阪府警南署によって書類送検されており、ネットいじめを野放しにするシスオペについては法的責任を追及する動きが生まれている。

英国
イギリスの政府が実施した調査によると、英国の12歳から15歳の34%は、何らかのネットいじめを経験したことがあると回答した。その実態に対処するため、「ネットいじめ」防止キャンペーンを英政府が立ち上げる予定である。

イタリア
イタリアでは、障害のある子供が同級生にいじめられている様子を写したビデオがイタリア語版Googleサイトにアップロードされた。この問題に関連して、イタリア当局はGoogle幹部4人を訴追する準備を進めている。なお、いじめていた少年達は、すでに刑事訴追されている[11]。

米国
アメリカ合衆国では、疾病対策センター (CDC) が若年層(10?17歳)がネットいじめを受けているケースが急増しているという調査結果を発表した。

バーモント州では2003年に13歳の少年が数ヶ月に亘り、校内とオンラインの両方で、ゲイと嘲られ自殺した事件がきっかけとなり、州内で取り組みが盛んとなった。自殺した少年の父親は息子の自殺後、ネットいじめの撲滅を訴える運動を始めた[13]。

また、ミズーリ州では2006年10月、人気SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でいじめられ、13歳の少女が自殺した。この事件が切っ掛けとなり、ミズーリ州ではネットいじめ禁止の州法が成立した。

2008年10月2日、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授達が、アメリカの12?17歳の4人に3人が、過去12カ月間で少なくとも1度はネットでのいじめを体験しているが、親や教師などにその事実を相談しているのはわずか10人中1人だけという調査結果を発表した。アメリカの学校で、ネットいじめが蔓延している実態が明らかとなった[15]。

韓国
世界でも早い時期に高速インターネット環境を整えた韓国では、既に国民の重要なインフラとしてインターネットが日常的に利用されている。そのデメリットとして、ネットいじめの問題の根も深く、政治問題に近い様相を呈し、「サイバー暴力」とも呼ばれている[16]。2008年5月の初め頃から行われている「ろうそく集会」(李明博政権の米国産牛肉輸入再開に対する抗議行動)にはインターネット・携帯メールを使う中高生が初期の主役となり、BSE(牛海綿状脳症)にまつわる根拠のない噂も広がっていた。ネットいじめを象徴する最初の事件が起きたのは2005年で、ソウル地下鉄で飼い犬の糞を始末せずに下車した女性の行為が発端でその後お年寄りが始末するまでの顛末を撮影したとされる動画がネット上に公開され、すぐに実名など個人情報が突き止められて女性のHPに非難の書き込みが殺到した。同じ頃ある大手企業勤務の男性が標的にされた事件も起き、2007年初めには人気歌手・女優が相次いで自殺したことの背景にしつこい中傷の書き込みが取りざたされた。米国産牛肉問題でも噂の流布、政権に理解を示す三大紙に広告を載せる企業に対する圧力などを捜査当局が「サイバー暴力」と位置付け激しい論争を招いている。

一方、ネットは権力を監視する強い武器でもあり、各地で起こるデモ隊の鎮圧場面は瞬時に世界中に流され、また当局から反体制とされた人物が検閲の目をかいくぐって発信する場にも使われる。韓国は97年のアジア通貨危機以来、政府の主導でネット普及に力を入れてきたが、盧武鉉前大統領のようにネットによる草の根募金(ノサモによる運動)が功を奏し当選に至ったケースもある。

意識改善の試みもあり、悪質な書き込み「アクプル(悪と英語のリプライを合わせた造語)」の被害を訴え「ソン(善)プル」を増やそうという運動が国民的俳優アン・ソンギ氏などの連名で若者を中心にモラル向上を呼びかけている。

2009年01月23日

サイモン医師による催眠療法

1964年1月4日、サイモンはヒル夫妻への催眠療法を開始した。彼はベティとバーニーにそれぞれ数度にわたり催眠術をかけ、この診療は同年6月6日まで続いた。サイモンによる催眠療法はベティとバーニーをそれぞれ別にして行なわれ、お互いがどのような記憶を想起したのか分からないようにして実施された。

バーニーの診療
サイモンはまずバーニーに対する診療から開始した。彼の診療は感情的なものとなり、怒りや恐れの爆発、ヒステリックに泣きだすなどしてしばしば中断された。UFO遭遇の体験中、恐怖によってほとんど目を閉じていたのだとバーニーは述べている。診療の初期段階においてこうした反応が見られたため、サイモンはバーニーがこれ以上トラウマを抱えることなく診療のことを覚えていられるようになったと2人が確信できるまで、催眠療法のことは忘れた方がいいとバーニーに伝えた。

催眠状態のバーニーはまた、UFOから逃げようとして車へ向かって走ったときに双眼鏡のストラップが壊れたのだと報告した。彼は車でUFOから逃げ出したが、なぜか否応なく道を逸らされ、森に乗り入れさせられたことを思い出した。バーニーは森の中に6人の男たちが立っているをの発見した。運転しているバーニーに停車を命令して、男たちのうちの3人が車に接近してきた。彼らはバーニーに、われわれを恐れるなと命じた。しかしなお不安を拭い去れなかったバーニーに、「リーダー」は目をつむるように命令した。催眠中のバーニーは「眼を眼窩に押し込まれるような感じがした」と証言している (Clark, 284) 。

バーニーは、その生命体の姿をベティが記憶しているのとおおむね同じものだと述べた。しかしバーニーは、彼らの目はもっと大きく、側頭部に届きそうなほどだったと話している。その生命体はしばしば彼の目を覗き込み、非常に恐ろしく、しかし魅惑的な印象をバーニーに与えた。催眠状態のバーニーは「彼らは目だけで話しかけてくる」 (Clark 291) 、「自分に見えたのはその目だけだった……その目は体につながっていないのではないかとさえ自分は思わなかった。とにかく目だけがそこにあるんだ。それが私の方へ近づいてきて、私の目に押し迫ってきたんだ」 (Clark 291) といったようなことを話した。

バーニーの話によれば、彼とベティは円盤状の宇宙船に連れ込まれ、そこで2人は引き離された。小さな男3人に一室へ連れて行かれ、バーニーは長方形の診察台の上に横たわるよう命じられた。ベティとは異なり、検査に関するバーニーの話は断片的で、彼は検査中のほとんどは目を閉じていた。着衣を剥ぎ取られ、カップ状の装置が彼の性器にかぶせられた。バーニーはオルガスムを経験し、精液標本を採取されたのだと考えた。男たちは、彼の肌をこすり、耳と口を覗き込んだ。肛門に管かシリンダーを挿入された。誰かが彼の脊柱に触れ、椎骨の数を勘定しているように思われた。

ベティがその生命体と英語で幅広い話題にわたる議論をしたと証言しているのに対し、バーニーは彼には理解できない不明瞭な言葉で生命体が話しているのを聞いただけだと述べている。何度か彼らはバーニーに意思を伝えているが、これは「思考の移送」とでも言うべきものだったとバーニーは述べている(この当時、バーニーは「テレパシー」という言葉を知らなかった) (Clark, 285)。

バーニーは船から連れ出され、自分の車へ乗せられたことを思い出したが、このとき車は森の中よりも道路寄りに置かれていた。呆然としながら、彼は船が離れて行くのを見た。バーニーは路上に光が現われ、「何てこった、二度とごめんだ」と言ったのを記憶していた。ベティがこの光を月ではないかと推測したことを思い出したが、実際には数時間前に月は沈んでいた。

ベティの診療
ベティの催眠療法は、バーニーに比べて平穏に進行した。催眠下における彼女の証言は、頻発するUFO遭遇の夢とほとんど同じ内容であったが、2つの顕著な違いが見られた。催眠状態で思い出した「小さな男」は大きい鼻をしていなかったこと、また髪の毛がなく禿頭だったことである。

サイモンは、ベティに「星図」をスケッチするように提案したが、彼女は躊躇した。彼女が船で見たという三次元星図を正確に描くことは不可能だと思ったためである。しかし最終的に彼女はサイモンの提案を受け入れ、12の星々を特徴とした地図を描き上げた。

サイモン医師の結論
広範な催眠療法を経て、サイモン医師は、バーニーの語ったUFOとの遭遇譚はベティが繰り返し見ていた悪夢の内容に影響を受けて生じた幻想であると結論づけた。サイモンは、この仮説が彼らの経験のすべてを説明するというわけではないが、最も説得力と一貫性のある説明であると考えた。しかしバーニーはこの仮説を受け入れず、夫妻の記憶にはある程度連動している部分と、それぞれが独自の体験を語っている点があることに注意を促した。バーニーは、ベティほどではないものの、彼らはUFOの乗組員によって誘拐されたのだという考えを受け入れようとするようになった。

ヒル夫妻とサイモン医師は、事件の内容や性質については見解を一致させることがなかったが、催眠療法が効果的であるという点に関しては同意見であった。ヒル夫妻は、悪夢や再びUFOと遭遇する心配によって苦しめられることがなくなったのである。

その後、サイモン医師はヒル夫妻についての記事を学会誌『Psychiatric Opinion』誌に寄稿し、このケースは類例のない心理的異常であったという彼の結論を説明した。

催眠療法後の報道
ヒル夫妻は日常生活に戻った。夫妻はUFO遭遇事件について、友人や家族、時にはUFO研究者と論じ合いたがっていたが、明らかにそれを公表するための努力は払っていなかった。

しかし1965年10月25日、ある新聞記事がすべてを一変させた。『Boston Traveler』紙の1面にジョン・H・ラトレルによる記事「UFOの恐怖:夫婦を襲う? ("UFO Chiller: Did THEY Seize Couple?") 」 (Clark, 286) が掲載されたのだ。同紙の記者ジョン・H・ラトレルは、1963年初頭にクインシー・センターで行なわれたヒル夫妻の講演を録音したテープを入手していたのである。ラトレルはヒル夫妻がサイモン医師の催眠療法を受けていたことを知っており、さらに夫妻がUFO研究家から受けたインタビューの記録も入手していたのである。10月26日にはUPIがラトレルの記事を取り上げ、ヒル夫妻は国際的な注目を集めた。

1966年、作家のジョン・G・フラーは、ヒル夫妻とサイモン医師の協力を得て、この事件を『宇宙誘拐 ヒル夫妻の中断された旅 (The Interrupted Journey) 』という本にまとめた。この本には、ベティによる「星図」のスケッチも掲載された。この本は大ヒットし、またたく間に版を重ねた。

バーニーは、1969年2月25日、脳出血のために死亡した。46歳であった。またベティは2004年10月17日、一年以上にわたる闘病生活ののち、癌によって死去した[1]。85歳。

星図の「解読」
1968年、オハイオ州オーク・ハーバーの小学校教師でアマチュア天文学者だったマージョリー・フィッシュは、フラーの著書「宇宙誘拐 ヒル夫妻の中断された旅」を読み、そこに掲載されていた「星図」に興味を引かれた。フィッシュは、この星図を「解読」すればUFOがどの星系から来たかを確定できるのではないかと考えた。

星図の12の星の1つは太陽を示すに違いないと仮定したフィッシュは、星図と既知の星とを一致させることができるかもしれないと考え、星図を研究しはじめた。そしてこの研究の結果、ヒル夫妻を誘拐したUFOは、レティクル座ゼータ連星系をめぐる惑星の一つからきたのではないかとの仮説を立てた。このフィッシュの仮説により、この事件は「ゼータ・レティクル事件」と呼ばれることもあるが、大部分のUFO研究家は「ヒル夫妻誘拐事件」(ないしそれに類する表現)と呼ぶ。

フィッシュはその分析結果をウェッブに送った。彼女の結論に同意したウェッブは星図を『アストロノミー (Astronomy) 』誌の編集者テレンス・ディキンソンに送った。ディキンソンはフィッシュとウェッブの導き出した結論を支持することはなかったが、興味をそそられ、同誌の歴史の中ではじめてUFOに関する記事として採用し、意見や議論を募集した。その後約1年にわたり、『アストロノミー』誌の投稿欄には、フィッシュの星図に関する賛否入り乱れた議論が掲載された。中でも、「星図」と見えるものは偶発的な点をランダムに配列したものにすぎないとするカール・セーガンとスティーヴン・ソーターによる議論がよく知られている。
ポップ ルーペ チョーカー シスコ ヤマブキ スカル タイタ イタドリ スター リーザー ケプラー プリンス バトントワラ ビーエス ドリー おおばこ 夢の跡 朧月夜 キック セルフタ 金時 モナーキー シクリカル ショック アウフへ ペンター 旅の夜風 マンド サンチュ ナンバ ショタコ ハンド レイン 都の桜 ハマソウ メッセ ノリウツ しゅひょう ニューメ パンチ ゲーマー ムハンマド ニエオ プレー ビキサン タント ヒッポグ タキシ 秋霖 トラスト

二人のドイツ人科学者KochとKyborgは、ベティが催眠状態で描いたこの星図に関する新たな仮説を提唱した。これは、1961年9月16日のアメリカ合衆国ニューハンプシャー州リンカーンの国道3号線における太陽系の惑星の位置関係を、異星人の宇宙船からの視点でヒル夫妻の目に映った様を描いたものだという。

『宇宙誘拐』
1966年に刊行された『宇宙誘拐 ヒル夫妻の中断された旅』でジョン・G・フラーは本件に関してより詳細な記事を載せている。同書の抜粋が『ルック(Look Magazine)』誌上に掲載されて『宇宙誘拐』は多くの版を重ね、ヒル夫妻は大変な有名人となった。

懐疑論者のあいだでは、ヒル夫妻の主張は、催眠術師がこうした出来事を信じているために診療にバイアスがかかって被験者に刷り込まれたものではないかという仮説が広く受け入れられている。これに関してバド・ホプキンズは、サイモン医師は夫妻の主張の真実性に対しては懐疑的であり、逆行催眠によって思い出したとされる夫妻の記憶は文字通りの事実ではないと述べたにもかかわらず、夫妻は自分たちが宇宙人によって誘拐されたという考えを翻すことがなかったことから、医師の先入見と夫妻の記憶内容に関連はないとしている (Hopkins, 218) 。

のちにベティは最初の誘拐以後もたびたびUFOを目撃したと証言し、「UFO業界における有名人になった」。

分析
後に一部の精神科医は、この宇宙人による誘拐(かもしれない)事件は、公民権法施行以前の、まだ人種差別が一部の州において合法であった1960年代初期のアメリカにおいて、白人のベティと黒人のバーニーが異人種間結婚した夫婦であることのストレスからくる幻覚ではないかという、人種差別的な説を示唆した[3]。ベティはこの指摘に対して、バーニーとの夫婦関係は良好であり、彼らは愛し合っていたこと、また他の家族や友人たちもそれを理解してくれており、なんの問題もなかったことを挙げて反論している。フラーの『宇宙誘拐』で指摘されているように、サイモン医師はヒル夫妻の結婚生活と彼らのUFO遭遇とは全く無関係であると述べている。
批評家は、催眠療法によってヒル夫妻に作話症(記憶と空想の混乱:催眠によって回復された記憶に信用が置けない事例があること)が生じた可能性を示唆している[要出典]。
1990年の記事「Entirely Unpredisposed」でマーティン・コットマイヤーは、バーニーが催眠下で行なった証言は、SFテレビドラマ『アウターリミッツ』の「宇宙への架け橋 ( The Bellero Shield ) 」というエピソードの影響を受けている可能性を示唆している。このエピソードは、バーニーが宇宙人について語った最初の逆行催眠診療(1964年2月22日)のおよそ2週間前(1964年2月10日)に放送されたもので、大きな目を持った地球外生命体(劇中ではビフロスト・エイリアン)が登場した。またその宇宙人は「目を見ればそこに言葉がある」といい、言語を介さないコミュニケーションを特徴とするなど、バーニーの語った内容はこの番組といくらか似通った筋書きであった(コットマイヤーの記事全文は外部リンクを参照)。ただしコットマイヤーは、そうした主張を展開するに際して、当時まだ存命だったベティに対して、夫妻がこの『アウターリミッツ』を見たかどうかを確認していなかった。別の研究者が『アウターリミッツ』についてベティに尋ねたとき、ベティは「そんな番組は聞いたこともない」と答えている (Clark, 291) 。そもそもバーニーは『アウターリミッツ』の放送時間である夕方にはいつも仕事に出ており、また夕方に在宅であった場合でも、夫妻はいつもNAACPやその他の地域活動に忙殺されていたため、そのエピソードを観ること自体がありえないとベティは強調した。
民俗学者トマス・E・ブラード博士は、『アウターリミッツ』のエピソード「宇宙への架け橋」とバーニーの話には類似点が多く、件のエピソードが催眠下のバーニーの記憶に影響を与えた可能性があることを認めつつも、彼はまたそういった類似点の説得力を弱めるいくつかの事実がある点にも注目している (Bullard, 15; included in Clark, 1998) 。第一に、バーニーが問題のエピソードを見たことが決定的に証明されていないこと。第二に、バーニーが催眠療法を受ける前から「抗しがたい眼力を持った存在がUFOの中から彼を見下ろしていたという明瞭な記憶を持っている」ことである (Bullard, 15; included in Clark, 1998) 。そして彼を見つめる存在とその目に関するバーニーの強迫観念は、このテレビ映像が放映される前から始まっていたこともブラード博士は強調している (Bullard, 15; included in Clark, 1998) 。
また他にヒル夫妻誘拐事件に対する新しい解釈を提案しているサイトも存在する。人間の生理学上ありふれてはいるが、あまり知られていない「驚愕反射」と呼ばれる特徴(および作話症)によってヒル夫妻の事件を説明しようとするものである

2009年01月16日

義経は九郎の通称から明らかなように


いしか ネーブル すたーふる リンホ オペミ 人気ツル タルク ガバナンス 二人のロ フォレ ギロチン トンコツ なか ダンス エベント タクティ タシケント バトンタ ポンプ グルーピー ツァイ ティッ フラット オーソ カルソ ラングド テニス ルチンスク プレーバコ とんだばや ピラカンサ パートタイ コネク ディア ミニチュア ラミア ルクソール ドアロック キンモ ビッグベン のあや フロイト リリー ビッグ ケワキ ハープ レンブ ビーエス ノッチ ロック
義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父為朝が鎮西八郎という仮名(けみょう)であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。義朝の末子であることは確かである。

源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。

妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平家滅亡後に平時忠が保身の為に差し出したとされる時忠の娘がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ出産後間もなく鎌倉の由比ヶ浜に遺棄された男児、伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の孫)の妻になった女子の3人が確認される。

人間像
死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人たちの義経評を上げる。

『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日条によると、奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、藤原秀衡は義経を強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留める事を諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。
同じく『吾妻鏡』によると、養和元年(1181年)7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠や佐貫広綱がいる。卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引いた。
『玉葉』によると、寿永3年(1184年)2月9日一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡し獄門にかける事を奏聞する為、少数の兵で都に駆け戻る。朝廷側は平家が皇室の外戚である為、獄門にかける事を反対するが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である」と強硬に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平家の首は都大路を渡り獄門にかけられた。
『吉記』元暦2年(1185年)正月8日条によると、平家の残党を恐れる貴族達は、四国へ平家追討に向かう義経に都に残るよう要請するが、義経は「2,3月になると兵糧が尽きてしまう。範頼がもし引き返す事になれば、四国の武士達は平家に付き、ますます重大な事になります」と引き止める貴族達を振り切って出陣する。『吾妻鏡』によると、2日16日に屋島へ出陣する義経の宿所を訪れた公家の高階泰経(後白河院の使いだったとされる)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか」と訊いた。これに対し義経は「殊ニ存念アリ、一陣ニオイテ命ヲ棄テント欲ス(特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う)」と答えて出陣した。『吾妻鏡』の筆者はこれを評し、「尤も精兵と謂うべきか(非常に強い兵士と言うべきか)」と書いている。また18日、義経は船で海を渡ろうとしたが、暴風雨が起こって船が多数破損した。兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多い事である。風雨の難を顧みるべきではない」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。
壇ノ浦の合戦後に届いた義経の専横を批判する梶原景時の書状[7]を受けて、『吾妻鏡』は「自専ノ慮ヲサシハサミ、カツテ御旨ヲ守ラズ、ヒトヘニ雅意ニマカセ、自由ノ張行ヲイタスノ間、人々恨ミヲナスコト、景時ニ限ラズ(義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている)」と書いている。その一方で義経の自害の後、景時と和田義盛ら郎従20騎がその首を検分した時、「観ル者ミナ双涙ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホス(見る者皆涙を流した)」とあり、義経への批判と哀惜の両面が伺える。
壇ノ浦合戦後、義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室の守覚法親王の記録『左記』に「彼の源延尉は、ただの勇士にあらざるなり。張良・三略・陳平・六奇、その芸を携え、その道を得るものか(義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物)」とある。
『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにも関わらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。
追いつめられた義経が平家や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れる為、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。『玉葉』の著者である公家の九条兼実は頼朝派の人間であったが、義経の平穏な京都退去に対し「院中已下諸家悉く以て安穏なり。義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。洛中の尊卑随喜せざるはなし(都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである)」と褒め称えている。